しあわせ街道 膝栗毛

心豊かに穏やかに。ひとり楽しい生き方の模索録。

【桜の蕾】「ワクワク」を能動的に作る修行

バシャールの言葉

あなたがただ「ワクワク」することさえやっていれば

あなたの人生において意味のあることは完璧なタイミングで起きるのです

という内容が響き刺さったこの頃。

 

私は、わくわくして生きているだろうか?

ただなんとなく一日が終わっていないか?

 

用事を済ませるだけの休日に、予定を足して…

一眼レフを持って、30分ほど寄り道をした。

 

 

まだ少し肌寒いこの頃。

今日は幸い天気も晴れ間が見えた。

 

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薔薇の若葉

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春の訪れを感じる。

若々しいエネルギー溢れる植物の姿に、元気をもらう。

 

桜の道。

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桜の蕾

やはり桜の開花はもう少し後か〜!と思っていたら…

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一足先に咲く一輪

たまに一輪だけ咲いている木を2、3本見かけた!

本当に、開花見頃まで、あと少し。

 

ふっくら蕾む様子が、開花に向けての"嵐の前の静けさ"じゃないけど、喜びとエネルギーで満ち溢れているのに、それをまだ表に出すまいと我慢しているかのようだった。

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ひっそり、上品に一番乗りした桜の花。

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同じ写真を、スマホでも撮ってみた。

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かなり印象が変わる。

F2、ボケボケ写真が好きな私。

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お寺の狛犬

逆立ちしているの、可愛くないですか?( ^ ^ )

 

今まで行ったことのない場所だから、少しドキドキしつつも、楽しく軽やかに写真撮影を楽しめた。

能動的に楽しむことの大切さ・エネルギー湧き上がる具合を学んだ。

 

アラサー独女の、停滞期に思うこと

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買ったばかりのアネモネ

30歳になった今、アラサーという言葉を何となく使えないでいる。

私が「アラサー」と言えていたのは、まだ20代だし、という余裕があったからだったのだと気付く。

 

年齢を重ねる毎に、自分の事、思考、わかることが増えた。

 

ちゃんと自分の事が好き、と言える今。

年々生きやすさを感じる。

年を重ねるのが楽しい。

選択の積み重ねがその人となる。

年齢重ねる毎にそれが人間が表れる。

よって、魅力ある人は益々深みが増すのだと、ようやく気付いたところである。

 

経験を積み、魂を磨き、心身共に良循環で、ちゃんとお役に立てるような人間になりたい。

いい年の重ね方をしたいと思っているこの頃だ。

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暖房の室内で、花開いたアネモネ

だが。

時折、所謂"年頃の独女"であるという部分が顔を出す。

世間様と一緒になって焦らせたり、ナイーブにさせたりと、気持ちの上下がしんどくなるのだ。

 

結婚を望むなら、必要とあらば、その時は来る。

全ては縁とタイミング。

自分がすべきことをして、自分が一番自分らしさを発揮できている時にこそのものだから、大丈夫。

…と私は本気で信じている。

 

しかし、日々変わりない日常と、自分を発揮しない自分と、戻ることができない年齢的焦りに、不安とモヤモヤを常に抱えているこの頃だ。

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真夜中のアネモネ

何より一番問題なのは…

この頃、趣味にも没頭できず、日々なんだか中途半端な生き方をしていること。

 

時間も無限にあると思って、ボケーっとしてしまう。

それを望んでしているのならいいのだけど、"なんとなく"しているのだ。

それがまたしんどくて。

こんな筈じゃない。

もっとメリハリのある人生を送りたいのに、と。

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人には、思考の本音と、行動の本音の二種類あるのだそうだ。

思考では、こうしたいこうすべき!と思っているのに、行動ではダラダラすることをしている、などがそうだ。

 

どちらも本音なのに、私の場合は、行動の本音を否定してしまう。

全肯定でも全否定でもない、行動の本音をじわじわと常に否定している状態。

 

基本ぐうたらタイプなのに、何故か理想ばかり高い。

それが四六時中、年中無休。

 

この概念を知り、ああそれはしんどいよね、と客観的に自分を知ることができた。

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今、自分が停滞期だなぁと感じる。

 

探しても、縁が無い時は見つからないもの。

割り切りつつ… チェックリストを作り、1つ1つこなしていく。

いやいや、そもそもチェックリストに記入すること、なんなら紙とペンを持ってくることすら面倒なのだけども。

 

それでも、今、この瞬間の選択肢は、二択。

「今を続ける」か「今行動を変えて、満足する時間を過ごす」か。

選択するのは、今までも、今も、これからも、自分だ。

 

停滞期、今は今できるお役目を果たそう。

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夜明けのアネモネ

 

【神在祭の出雲大社】②ひとり日帰り参拝レポート(後半)

新年、おめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ということで、引き続き出雲大社参拝レポを更新。

 

稲佐の浜・弁天島へ向かう

前回からの続き。

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今回の記事は、出雲大社参拝後に向かった、稲佐の浜の記録。

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出雲大社参拝後、時刻は13時半。

そこからお土産屋さんチェックと、ランチと、デザートを済ませ、時刻は15時。

 

16時までは遊べるので、微妙に時間が余った。

何せ、参拝後は土産屋巡りをしようかな、くらいのノープランっぷり。

どうしようかと思っていたら、駅に置いてあったリーフレットによって、「稲佐の浜」「弁天島」が近くにあることが判明。

 

地図によると、出雲大社から徒歩で片道20分(1.5km)らしい。

1時間で楽しんでくることはできるのか…!?

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息を切らせつつ、急ぎ足で向かう。

 

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稲佐の浜、到着!

(左側は工事中。)

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サラサラの砂浜。 ゴミや漂流物も全くない。

 

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あまりの綺麗さと力強さに感動しっぱなし。

海風も気持ちよく、波音も心地よい。

 

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夢中でファインダーを覗き、斜めっても全く気づかずにシャッターを押す。

(自分では真っ直ぐのつもりだった)

 

西日をレンズ越しに直視した為、目が痛かった。

本当はしてはいけない事、とわかりつつも、素敵すぎて捨て身にさえなってしまうほど。

今、この瞬間を味わいたくて必死だった。

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名残惜しくて、帰りの通りすがりにて。

出雲大社の勢溜前から、色付いた山の写真を撮る。

 

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駅に着いた途端、電車が到着。ギリギリ!

 

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出雲市駅に到着。

 

おまけ

出雲といえば、「出雲そば」。

お昼時だったのもあり、どこのお店もお客がたくさん並んでいた。

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この度入ったお店は、「みちくさ」。

 

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お腹が減っていたのもあって、あっという間に完食!

美味さ染み入る、無心で啜る。

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食後のデザートは、ワッフル。

カップに入った珍しいタイプをテイクアウト。

 

ワッフル貪る30歳の横では、団体観光の中学生たちが。

 

行き先を決められたり、時間制限があったり…

学生ならではの不自由さの中で、男女でわいわいと恋バナなど展開させつつ楽しい時間を過ごしている彼らを、横目で眩しく感じつつ。

 

一方私は、今、自分の財力、時間で、好きなように満足することができる。

そんな今の私を、私はちゃんと好きなんだな、と気付くこともできた。

 

年々、周りの目が気にならなくなっているだけか(図太くなったか)、 「好きになれる自分であろう」となるべく意識して生きるようにしているからか…

 

「自分が好き」の意味・概念が、30歳にしてようやくわかるようになった。

 

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自分用の土産、日本酒。 飲みやすかった。

【2021年】お正月らしい花を飾り、今年の自分を振り返る。【ピンポンマム・南天】

 

 

もうすぐ今年が終わりますね。

新年に向けて、おめでたい物たちを店頭に並べる街の空気感が好きです。

お正月らしい花を飾った

ということで、部屋にお正月らしさを取り入れようと、久しぶりに花を飾った。

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初日の出に見立てたピンポンマム

花選び・生けるセンスの無さを痛感し、笑いながら生けた花達。

くすみピンクのスターチスで、朝焼けの雲海をイメージしたかった…!

 

花の組み合わせにしても…

花の大小?系統?色彩?

何からどう選んでいいか、わからないのは相変わらず。

 

とはいえ、まぁ、実を飾ってみたいという願望が果たせたので良し。

 

今年飾った花の記録。

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今年を振り返って

今年は、自分のペースでじっくりゆっくり過ごせた年だった。

 

2021年の生き方・考え方

「自分はどう思う?」を尋ねるように

特に意識したのは、対人関係。

身近な人に対してでも、苦しさを感じたらちょっとずつ自分の気持ちに従うようにしてみた。

もちろんまだまだで、本当にこれで良かったのだろうかと後から悩むことも結構ある。

 

仲の良かった頃を思い出して、ちょっと切なくなったり。

だけど、自分も相手も、常に今を生きているからね。

皆、日々変化するし、自分だって変化したり自分の渇いた気持ちに気付いてしまったのに、それを無視してルート逆走するのは、ちょっと違うよね。

と頭で理解したのがようやく体で行動に移せるようになった感じ。

 

自分に嘘はつけない、というのはこういう事なんだなと、知識が体験で追いついてようやく理解した。

 

自分を客観的に観察できるようになった

ああ自分、今こういう風に思っているのね、と客観的に見るように。

自分が自分の一番の理解者となったので、「自分のことが好き」という概念がわかるようになった。

 

「自分がダメなのではなくその行動をしたことが反省点。

 じゃあ次同じようなことが起こったらどうしようか?」

と事象にだけフォーカスできるようになったのも、最近の出来事。

(今までは、"こんなことをしでかす私って"、に行きついていた)

 

自分を諦めた

自分のことはちゃんと好き、だけど何度も失敗するし、要領悪いし…

 

「ああ、もう私はどう足掻いても私なのだ」

という一種の諦めが自分の軸となったため、以前に比べて人と比較しなくなった。

 

直せるところは直していきたいし、成長できるのなら喜んで。

と、人生は何事も修行だ、というスタンスで楽しく生きてはいるけれど、まだまだ。

 

なぜ察してくれないの、なぜ自分がこんな目に、と他人を意識しまくっている自分に気付く。

頭では理解しているけれど、いざその場になると、心と体はなかなかついていかなくて、それもまた修行だと思っている2021年の終わり。

 

2021年の休日の過ごし方

休日は習い事や、神社仏閣への参拝を楽しんだ年だった。

 

今まで、色々と習い事をしてみたけれど、自分にしっくりくる習い事に出会ったのが原動力となり、しんどいながらも楽しくあっという間に過ぎゆく休日を過ごした。

 

神社仏閣参拝は、きっかけの宮島の弥山登山が楽しすぎた。

今でも思い出しては上機嫌になるほど。

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神社仏閣や旅行自体、ほとんど興味がなかったのに、まさかこんなにも趣味興味になるとはなぁ、と驚いている。

なんでもタイミングってあるから、興味ないからと決めつけて視野狭くしない方がいいのかもしれない。

 

おわりに

ということで、ブログに書くような発見・熱い思い、というのが無く、ブログ更新頻度が低かった。

比較的心穏やかに過ごしていたので…

ある程度のストレスがあった方が、エネルギッシュに活動できるのかもしれない。

 

あと、自分の中で常にいろいろな小さな変化が起こり、あれもこれも、の思考に体が追いつかなかったのもある。

体は常に"しない"を選択しているだらだら人間なのは相変わらず。

 

そんな今年ではありましたが、ブログを見てくださる方がいたのは嬉しかったです。

今年もありがとうございました。

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  南天が余りすぎたので、小さな瓶に入れ、家の至る所に飾った。

  赤い実がたくさんなっていると、エネルギー湧くよう。

 

【中秋の名月】雲間から虹を味わう夜(追記あり)

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2021年の中秋の名月

今年の中秋の名月は…

私の住む地域では、空一面、雲に覆われていたけれど、幸い比較的薄かった。

 

まん丸の月そのものを見ることはできなかったけれど、小切れになった雲の隙間から、月あかりが漏れ広がり、月の輝きを確認することができた。

 

光が雲に当たり、虹色に見えたのがこれはこれで美しくて、心踊った。

こういう見え方もいいかもなぁと思った秋の夜。

 

雲の動きが早くて、光っては雲に隠れの繰り返し。

一瞬一瞬を味わわないと、と時と美しさの有限性を改めて自覚した。

 

 

写真にはうまく写らなかったので、絵に描いた。

綺麗さが伝わるといいなぁ。

 

 

以前より物事を客観的に捉えられたり、考え方が大人になったと成長を感じられる部分も出てきたけれど…

それと比例するように、未熟なところにも目が向くことが多くなったこの頃。

陰と陽とか、振り子のようだとつくづく思う。

 

幅広く、柔軟で素直に味わう30代にしよう。

 

▼追記

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きぬちゃん、やえちゃんのお月見の様子。

夢中になれるものがあると強い理由

久しぶりに絵を描いた。

お彼岸ということで、彼岸花。

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彼岸花

久しぶりに絵を描いたきっかけは、

「夢中になると、ゾーンに入る」

という考え方に改めて触れたから。

 

この考え方自体、「そうだよね、当たり前だね」と頭ではわかりつつ。

でも自分の場合、夢中になるものがなくて、何もしないのに時間に追われる感覚がずっと続いていた。

 

「夢中になると、ゾーンに入る」

ここのところ3日くらいかけて、霊能者である月夜見先生のブログや動画を見漁った。

 

「夢中になると、ゾーンに入る」の月夜見先生の見解は、

 

・人の意識は、光の速度を超える。

 ただ、一目を気にしているうちは、光の速度より遅い。

 

・光の速度内にいる間は、運命に縛られる。

 

ゾーンに入っている時間が長ければ長いほど、運命が変わるし、引き寄せの法則が発動しやすい。

 

好きなことをしたら、自分が中庸(真ん中)でいられる

 中庸でいるときだけ、直感力が磨かれる。

 

集中した状態に持っていきたいな、と触発された

なるほど、と妙に納得した。

意識の速度という見方をしたことがなかった、自分にとって新鮮だった。

 

"光速"に惹かれるって、なんだか小学生みたいだけど。

そんなきっかけで、なんだか久しぶりに絵を描きたい気分になったのだった。

 

 

描いている間の30分があっという間に経って、ああ自分集中していたんだな、と後から気付いた。

満足感半端ない。

ゾーンには程遠いけど、繰り返して、集中した状態に持っていきやすくしたいものです。

 

意識すること自体滑稽だよなぁ、本来は無意識にやっているものが"夢中"というものだから…と思わないでもないけれど。

こういう持っていき方もアリでしょう。

 

動く準備ができたとき、きっと守護霊は尻を叩いてくれる

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サンキャッチャーとプリズム

お久しぶりです。

前回(6月)から間が空いて、現在9月半ば。

 

夜風に乗った虫の音が心地よい今…

この空いた期間を振り返りつつ、今日ブログ更新に至った理由を綴ってみた。

 

 

この春を振り返って

最近の記事達を振り返ると…

当時の自分の生活そのものが、なんだか気持ちが高まった感じを受ける。

 

そんな今年の春の一大イベントが、こちら。

宮島の弥山登山。

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山登りと縁がなかった私が、唐突に登った弥山。

そこでもらったエネルギーは本当に元気が湧くもので、これだったら新しい自分になれる気がする!と意気込んだのも束の間…

 

テンション上がれど、自分の本質は変わらない

気分が上がり、エネルギー高いまま生活をしていたけど、それは本来の自分ではなく…

貰ったエネルギーだから、生成できず、割と早い段階で枯渇してしまった。

扱う素質がなく、受け取るにしては自分の器が小さかったのだと思う。

 

ダラダラすることに罪悪感を抱く

一旦エネルギーの高揚を味わってしまうと、それが本来の自分な気がして。

でも、本来の自分は、ダラダラしてしまうタイプ。

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そのギャップに苦しみながらも、自分の甘さに負けて、ダラダラして過ごした。

「罪悪感…」などと言いながら、やっていることは自分を甘やかすのである。

認めたくはないが、罪悪感を抱くのが趣味なのだろう。

 

「とりあえず1動こう」の1をするやる気が湧かない

何かしようと思えど、体は動かない。

100を求めず、まずは1やってみたらいい、とわかっているのに、その1すらやる気にならないのだ。

そんな自分が情けない、とまた罪悪感。

 

「やろうとしている行動が、自分が本当に心から望んでいることじゃないから、体が動かないんだ。」

「いやいや、ずっと何もしなさすぎて、心が、感性が、死んでしまったのかもしれないからこそ、動いてリハビリせねば。」

 

そんな感じで、脳内で天使と悪魔が主張し合っていた。

体は元気なのにやる気が一切わかず。

 

職場と家の往復の日々、やることといえば、Youtubeにおすすめされるがまま動画を見るという、超受け身な生活を送っていた。

 

心霊の、夏。

Youtubeを見続ける生活。まずいなぁと思いながらも、何か動くためになるきっかけ的動画を欲していた。

 

一日何時間もあれこれ見つつ、何か違う、というか自分は何を探しているんだろう?というときにたまたまオススメ欄に表示された動画があった。

"お笑い芸人・シークエンスはやとも"さんのYoutube動画。

"見える"系芸人ということで、動画では、心霊系の話をされている。

見ていくうちに、刺さるものとなっていった。

 

シークエンスはやともさんに惹かれる

きっと苦労されているだろうに、それをなんとか自分の糧として、他人に媚びず自分を生きているなぁというのが伝わってくる、なんともいえない心地よさをお持ちの方。

とても言語化がうまく、私自身も脳裏ではふわっと感じなんとなく認知していたことを、見える人の目線で綺麗に言語にしているのが心地よく、見入ってしまった。

同年齢で親近感が湧いたのもあるし、お人柄と、思考、考察に惹かれ、好きな芸能人と言われてもピンと来なかった私が、恐らく初めてグッときた方である。

 

彼の動画を見ながら、見えない世界の存在を自分の世界観の中で改めて構築・更新し、落とし込めた頃。

ようやく気持ちが整ったのである。

 

今までは、自己啓発系や暮らし系の動画で気合が入っていたのだが、今回はまさかのこちらから!

全ては繋がっていると思うけれど、ははぁなるほどねぇと驚きと納得。

 

スピリチュアルは特別なものではない、かも

ちなみに私、心霊・スピリチュアル系は、信じている方。見えないけど。

直感はそこまで悪くはないし、何かしらに見守られているとも感じているので、だからこそきちんと生きないといかんなぁと思っている。

 

実は今まで、心霊・スピとか、何か特別なもの感が強かったのだけど、実はそうでもないんじゃないかと思うこともできた。

いや、自分の中では重要で大切な考え方なんだけど。

とはいえ、化学科学、数学や言語や歴史やありとあらゆるもの全てと、心霊・スピも同じというか…

ジャンルで分けるその境界すら人間の認知からだと思うし。

 

我々は生きている為、異様に「生」にフォーカスする。

逆に「死」は特別でよくわからないとして扱う。

でも、生と死、合わせて陰陽の円を成していて、生きていても死んでいてもどちらでも反省し学ぶし何かを感じるし、この世あの世全ての仕組みはなんら変わりないんだろうなと思ったのがこの夏の収穫。

うまく表現できないけど。

 

ついに季節は秋

ブログを更新しようと思ったタイミング

北向きの我が家、直射日光が入ることはないのだが…

快晴の昼前のみ、向かいのお家の窓に反射した光が入ることがある。

 

この度久しぶりの反射光を見つけたので、サンキャッチャーを垂らしてみた。

綺麗なプリズムが散らばった。

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光と戯れつつ、思いつきでカメラを設置し、撮影したのがこちら。

写真撮影後、わずか数秒で曇り、日の反射向きが変わって、本日のプリズムタイムは終了。

 

 

今日はいいものを見せてもらった、と嬉しくなった。

タイミングってあるんだな、と思ったときに、長らく更新できていなかったブログの存在が頭をよぎった。

 

私なりにいいエネルギーを発していきたいと思った時、ダラダラモードだったのがようやく歩き出せたような感覚になったので、それを記した次第。

 

たまたまかもしれない。

事だけ見たら、久しぶりにサンキャッチャーで遊べて良かったね〜という話。

だけど、心が整い動く準備ができていたのになかなか動かなかった私に対して、守護霊が尻を叩いてくれたのかもしれないとも感じた。

 

▼私が以前購入したサンキャッチャー

 

どういう世界を見るかは、自分次第。

真実は存在しないそうな。

 

はやともさん経由で月夜見先生の存在も知ったのだけど、月夜見先生曰く、

「有か無か、じゃなくて、あるもの全て"虚"」。

意味はなんとなく理解できるけど、まだまだ落とし込めていない。

 

この肉体で味わうもの全部、ダラダラに対して感じる罪悪感すらも、楽しんで命をまっとうしていきたいと思ったお彼岸。

【切り花の紫陽花】毎日ちょっとずつ変化しているから、大丈夫。【色が変わった!】

紫陽花の色が変わった!

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↑この時に買った、紫陽花(と薔薇)。

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買ったばかりの紫陽花切り花

綺麗なグリーンが枯れないように気をつけよう、と水切りを2、3日に1回程度していた。

 

購入後、一週間くらい経ってから気がついた変化!

なんと、紫陽花が色づき始めたのだ!

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淡めのグラデーション変化

私自身、今まで花を長持ちさせるタイプではなかったのもあって、

毎日、枯れていないか、ぐったりしていないかばかりに気を取られていたのだけど…

 

切り花の紫陽花って、すぐにダメになってしまうかと勝手に思っていたので、驚いた。

 

そしてそもそも、こんなにも花開いていたことに、写真を撮ってから気がついた。

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結構変化しているじゃん!と、今更嬉しい。

 

当たり前の変化は気付きにくいもの…かも

ていうか、こんなに花開いているのに、今まで気付かなかったなんて…と自分に驚いた。

色の変化は気付いたけど、花開いていたことは気付かなかった。

花開いたからグラデーションの変化がある訳なのだけど…。

 

飾ることで、花に癒されていたのも確かなのだけど…

水切り、水換え、虫が湧いていないか、などの行動にばかり気を取られていた。

 

本当の意味で、ありのままを愛でれていなかったなぁ。

 

もしくは、あまりにも当たり前の変化は、案外気が付かないのかもしれない。

 

変化の日々

日々のちょっとした変化の積み重ねが、ある時「あ、そういえば変化している!」になるもの。

変わっても、変わらないと思っても、今のこの"ありのまま"を楽しめたらいいなぁ、と気付かされた朝。

 

大丈夫。

確実に毎日何かしら変化している。

いいと思うも、良くないと思うも、自分次第だけれど。

「幸せ自慢」が鬱陶しく感じるのは何故か?

 

「この間、こんなことをして楽しかった」

「幸せに感じているんだ」

こういう報告を聞いて、どう思うだろうか?

 

心から素直に「いいね!」と思うのか?

それとも、「なんかモヤモヤする」のか?

 

話し手、聞き手、それぞれの心の状態で変わってくるものだ。

 

幸せの定義

幸せ、不幸の定義は人によって違う。

この度は、幸せな人は「満たされていると感じている人」、不幸な人は「満たされていないと感じている人」ということにする。

 

幸せな人の「幸せ報告」

話し手が幸せの「幸せ報告」。

☆ 聞き手も幸せだったら、ハッピーな会話、

☆ 聞き手が不幸だったら、面白くない話か、憧れる話か…(聞き手次第)。

 

じゃあ、話し手が不幸な場合の「幸せ報告」は?

話し手が不幸なのに、幸せ報告ってある??

 

不幸な人の「幸せ自慢」

幸せを外に求めている

一見矛盾していそうだが、こういう人、身の回りにいないだろうか?

見栄を張ったり、自分を大きく見せたり、それっぽい雰囲気を出しつつも、なんか飢えている人が…

 

話し手が不幸な場合の「幸せ報告(=幸せ自慢)」は、自分目線の幸せを味わっている人ではなくて、他人目線での「幸せっぽいもの」を味わっている人の話だと思う。

 

そもそも「満たされる」「幸せ」と思うには、外側にではなく、自分の内側に感じる他ない。

いわゆる「素敵!」なことも、他人目線の「良さそうと思われそう」じゃなくて、自分目線の「いいな」であることが大切だ。

 

素敵だと思われたい

例えば、「自然の中で読書したい」と思った場合…

「ここで本読んだらかっこ良さそう、人生楽しんでそうな人っぽい」

と、景色やシチュエーションを自分を引き立てるために使うのも楽しみ方の一つだけど…

これは自己満足しているようで、"人から「素敵」「いいね」と言われたい"という気持ちもあるので、きっとどこか虚しさを覚えることだろう。

 

一方、「ここのこの景色を存分に味わいつつ、読書に集中できたら気持ちよさそう」

と、あくまで自分は自然の一部、それを味わうんだ、という姿勢だと、自分がどう思ったかが幸せに左右するだけなので、他者と幸せは繋がっておらず、関係がない。

 

同じような幸せ報告をしても…

話し手が「幸せな人」か「不幸な人」かで会話に求めるものが違う

「不幸な人」の場合、他人目線での楽しみ方になるので、"誰かに報告したい欲"ありきの行動になってしまいがち。

先程の読書の例でいうと、50%その場での読書を楽しんで、残りの50%部分を誰かに報告したり「いいね」と言われることで満たされる。

それが聞き手からすると、自慢やアピールに聞こえてしまうのだ。

というか、欠けているからこその自慢やアピールなのだ。

 

一方、自分目線での楽しみ方ができる「幸せな人」の場合、その場を100%楽しめて、それを心から楽しかったこととして報告しているだけなので、話し手がハッピー。

 

仮に、聞き手が不幸な人だったとして、批判を喰らってしまっても、その読書自体は楽しかったし満たされた行動だったので、「話す相手を間違えたな」程度でサラッとながせてしまう。

 

「幸せ自慢」が鬱陶しく感じてしまうのは

チクチクを感じるから

話し手の「よく見られたい」「素敵って言われたい」という部分によって、話し手の行動が作り物のように思えてしまう。

もちろん、作り物が悪い訳ではない。

ただ、作り物をあたかも本物かのようにして、話し手にとって満たされない部分を補おうと、聞き手を刺激してしまうのが、少々厄介なのかもしれない。

 

そんな幸せ自慢は、チクチクした形のイメージ。

純粋に相手に話を聞いてほしいわけではなくて、陰には「期待」「執着」「闘争心」が見え隠れする。

いい反応を求められるのが、しんどい。

自分より優位であろうとする相手が、しんどい。

 

優しい幸せ報告は、聞き手も幸せになる

もし本当に、話し手が地球に生まれ無事命あって、したいことができている幸せを味わえているのであれば、その人の幸せ報告によって溢れ出るエネルギーは、間違いなく他の人を幸せにするものだと思っている。

 

悪口は悪口を呼ぶけれど、逆に、幸せもまた幸せを呼ぶ。

聞き手にとっても、「そんないいことがあったんだな」と幸せな世界が1つ増えたことになる訳だ、そんな幸せ報告は、優しく温かい光のよう。

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終わりに

この度は、話し手サイドの要因の話をした。

冒頭でも述べた通り、聞き手の価値観・心の状態によってもハッピーな幸せ報告が、鬱陶しいものへと変わるもの。

 

また、この度は私自身、記事を書きながら、自分の過去を振り返って反省した。

昔は昔で、例えば「休日は美術館へ行きます」などにしても、当時十分に楽しんで幸せだと思いながら行動していたはずなのだけど。

今思えば、いや、今感じる心から望むしたいことと比較した時に初めて、「あああれは他人から良く見られたい、という思考も混じっていたんだな」と気づくことができた。

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お恥ずかしながら、この時はまだ、美術館の楽しみ方が曖昧だった。

「美術に関心がある私」「美術館へ行く私」感が強かったかもしれない。

 

あれから2年。

自分の絵とも心で向き合いつつ、関心がある展示の美術館へと足を運んだりするうちに、美術館へ行くことが、自分にとっての楽しみ方の選択肢としてレギュラー化したような感じ。

なるほどなぁ。

 

歳を重ねる度、自分の変化が味わえるので、10代、20代の昔より、断然今の方が楽しくて幸せだ。

と、こうして幸せアピールするのも、記事の内容に矛盾しているような気もするのだけど。

【実践】本当の自分が「したい!」と望んだことをした休日の満足度は高い

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ここで浮かんだ「やりたい!」と心が思っていたことを、実行してみた。

 

したいことを叶えた休日

というわけで、明日決行するぞー!と思いながら眠りにつく前日。

一人じっくり過ごす計画にワクワクするのなんて、初めての経験かもしれない。

 

 

快晴の休日。

7時過ぎ起床。

サッと掃除して、軽いヨガをして、神社へ向かう。

 

ところが、行きたかったカフェが閉まっていた。

えー…とガッカリしつつ、すごすご帰ると、この計画は失敗に終わる。

予定変更。

パン屋へ寄って、パン購入。

 

家でコーヒーを淹れて、小さいローテーブルを日当たりの心地良い場所に移動し、座布団と膝掛けを敷いて、自室カフェ開店。

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読みたい本があったので、最高のモチベーション、シチュエーションの時に読んだ。 

自分の思考に近い本だった!

 

 

昼寝をはさみ、午後からは、知らない花屋さんへと足を伸ばす。

 

今月は6月。

爽やかなグリーン系が欲しい気分だった。

この度は、紫陽花と薔薇に決定。

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紫陽花と薔薇

 

こうして午後、花を見ていたら、じんわり満足感を味わえた。

特別どこかへ行ったり、何かをする訳では無いけれど、自分を自分で満足させる…

こんな休日を求めていた。

 

やりたいことをやって気づいたこと

自分には活動できる時間帯があった

午前中に実行するのが鍵

午前中に満足度を上げておくと、その満足度は一日中続くことが判明。

午前中に行うことで、「まぁ午前中ちゃんとやったからな」という安心に繋がる。

 

自分の希望ではなく、自分の体に聞いて行動する

また、どうやら自分は日が出ている間しか行動できないらしい。

これは太陽が影響しているのだと感じる。

「この頃はなんか気分がいい時間が続くなぁ!」と思ったら、特に今は6月、日も長いからだった。

 

夜の静かな時間こそ、集中して時間を使えそうだし、そういう計画をよく立てていたけれど、私の場合は日没以降、思うように進まない。

 

自分が集中力がないせいだ!と自分を責めていたけれど、これはもう仕方ないと認めた。

計画改め、夜は何もしない!と決め、Tverでのドラマ視聴や、SNS、連絡返信、リラックスタイムなどに使うと割り切ることにした。

 

毎回は無理でも、ちゃんと実行した日があれば、それでいい

毎回毎回、理想的な休日を過ごさないといけない、と思っていた。

だけど、それは無理。

天気や季節によって、かなり左右されてしまう、私の気分。

だから、「こうしたい!」と思った時に「ここぞ!」を叶えてあげると、「まぁあの日はいい休日を過ごせたからな」「今日はだらだらしよう」というメリハリにも繋がる。

 

行動の仕方は一つじゃない

「カフェで過ごしたい!」と思って計画した、今回の行動。

願いは叶わなかったけれど、決して満足度が低いわけじゃない。

むしろ、違う方法でも満足できることを知った。

というか、自分が望んだ「カフェで過ごしたい」ことの本質は、「気分を変えて」「美味しいものを食べながら」「ゆっくり落ち着いた時間を過ごしたい」だったのかもしれない。

 

【自己分析】だらだらした休日は、なぜ後悔するのか?

充実した時間を過ごせない、と感じる休日

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犬カフェのワンコ

「休日は何をしていますか?」

の問いに、いつも困る。

自分がしていることに、満足していないからだ。

 

というのも、やりたかったことの3〜6割程度を実行して終える休日。

だらだら過ごして、いつも後悔するのがお決まりのパターン。

 

  ▼ 一年前も同じようなことを嘆き、分析していた。

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 この時、解決策を立てるも、やはり思考はそう簡単には変わらない。ホメオスタシス。

 

だらだら過ごす休日は、悪か?

私の中では、「望んだことができなかったのは、だらだらしたせいだ!」と"だらだら"を悪者扱いしているが…

もちろん、だらだらすること自体、全く悪いものではなく。

取り扱う者が、"だらだら"をうまく扱えなかった為に、悪者にしてしまっているだけの話だ。

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猫カフェのニャンコ

「休日はだらだらして過ごしています!(^^)」

と笑顔で答える人もいれば、

「休日はだらだらしています…(--;)」

とつまらなさそうに答える人もいる。

私は言わずもがな後者。

 

この違いは、なんなのだろうか?

 

「自分」で決めていないから後悔する

「こんな休日を送りたい訳じゃなかったのにだらだらしてしまった!」

と、"自分に負けた"、"流された"、と言うけれど…

 

『「こんな休日を送りたかった訳じゃないのに!」と言いつつ、だらだらするという選択をする自分』だということ。

自ら決めているはずなのに、いつだって受け身で、「ちゃんと意識して自分で決めていないから」後悔する。

 

「今」をなぁなぁにしているから後悔する

「後でやろう」と自分で決めたはずなのに後悔するのは…

"「今」に集中して、時間を過ごしていない"から。

 

休日の前日は、「明日の自分がなんとかする」

午前中だらだらしたら、「午後からちゃんとするから問題ない」

と望んだ自分を先延ばしにしてしまう。

午後になって、やる気が出ず、「ああ時間がない、こんなはずでは…」と嘆く。

 

未来に期待し、今をなぁなぁにしているのが原因。

これが、同じことをしても時間を決めるなどすれば、それぞれ今に集中することになるので、後悔はないはず。

 

そこで浮上する問題点

●自分への嫌悪問題

・きちんとするんだ!という理想像を抱いているのに、それを実行しない自分

・「今はやる!今はだらける!」「今日はとことん休む!」というようなメリハリをつけない自分

 

●行動の問題

・「やりたいことがある」と言いつつ、結局は心の底からやりたいことではないから、実行しないんじゃないか?

・自分に対する理想が高すぎる・自分に合っていないのでは?

 

自分が嫌!と言い続け、自分を認めない。

そんな日々の積み重ね。

しかも、毎度改善しない。

自己信頼が無い、自己肯定感が低くなるのも、無理もない。

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うさぎ島のうさぎ

 

どうしたら自分は満足するか?

「じゃあ自分は、どうしたら満足すると思う?」と問うてみた。

 

まずは、カフェに行きたい!

おしゃれに集中して本読んだりして…

グリーンに囲まれてホッとしたいし…

それでもって、家に帰ったら、家が綺麗で気持ち良いの。

だったらきっと満足するかな〜。

 

そんな無垢な回答が返ってきた。

なーんだ。

「#丁寧な生活」だなんだと指咥えつつ吠えていないで、やればいい。

過ごしたい休日を過ごしてみたらいいじゃないか。

 

ということで、後日、叶えてみた。

 

※ゆったりしたイメージに合うので以前撮影した動物たちの写真使った。

 動物たちのまったりする姿には本当に癒される。

【クレマチス】"なんでも正解を求める癖"で、人生楽しみ方の幅を狭めている、かも【和風に飾る】

自室に部屋を飾りたい

季節は5月。

GWあたりからグダグダと始めた断捨離と掃除と整理が終わった今。

部屋で心からリラックスできている自分に気づく。

 

よし、今こそ花を飾ろう。

 ▼以前飾った花関連の記事。

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春といえば、ガーベラやスイトピーが好きで、よく飾る。

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こちらはレースフラワー

 ▼この時に紹介したもの

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先月購入した、備前焼花入。

ころんと可愛くも渋いところがお気に入り。

 

だけど、いわゆる春っぽいドレッシーな花を飾ると、どうも備前焼の渋さが生きない気がして…

 

この度は、この備前焼の花入に合うお花にしよう、と決意。

 

焼き物の花入に合う花を探す

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床の間に合いそうな雰囲気にしたいのだ!!

床の間ないけれど。

 

この花入、お店に売っていた時に、この絵の感じで茶花が生けてあって。

その姿に惹かれ、花入購入に至ったのだ。

 

ということで、丸い花入から花が垂れ流れる感じにしたい。

 

花屋の店先に並んだ「クレマチス」

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季節は5月。

花屋で目を引いたのはクレマチス。

 

一本が長く分けられていたので、大きな花瓶向きだったのだろう。

 

しかし、ツルが可愛かったので、買って帰った。

 

花を生けるのは難しい…

そして生けた写真がこちら。

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備前焼とクレマチス

思い切って、小さい部分一本だけに絞った。

 

自分がやりたいように出来て、満足はしている。

しかし、この生け方がどうも上手く無い事もわかる。

正解がわからない。

 

正解を求める癖がある自分に気づく

こうやってすぐに正解を求める癖、正解であろうとする癖が、自分のツマラナイところだなぁと思う。

生き方すら正解ない。

ましてや趣味の部分、何も考えず楽しんでいいのに。

と頭ではわかっているのだけど。

 

いや、楽しかった。

楽しいのに、アクセルとブレーキを同時に踏む感じ。

そのブレーキが、正解を求める自分なのだろう。

 

と、花を生ける行動一つでも、自分の性格が出る。

性格・思考が行動に出ているのか。

 

そういう性格ごと、「こんな自分もいるんだ」「全部含めた自分だ」と受け止めたらいいのだろうけど、自分では欠点で改善したいと思っているので、なかなか受け入れられない。

 

 

…とまぁ、一本が長く、お花が何輪か付いていただけに、どこを切り分けたらいいかわからず…

試行錯誤の末、この図に。

 

「多い」「増やす」ばかりが豊かな訳ではない…?

使える部分がたくさんあると、目一杯使わなくては…!と意気込んでしまう。

あーでもないこーでもないと、突っ込結果、一本に落ち着いた。

 

華道の勝手なイメージ、「引き算が大事」というのがちょっとわかる気がする。

 

 

しかし逆に、フラワーアレンジメントの場合、足し算的な美しさやバランスが大事なのかもしれない。

 

もちろん、どちらが優れているとかではなく、自分が目指すものにするために、足し算引き算、その他手法いろいろなことを幅広く学び、生かせたら素敵だ。

勉強は、自分が人生を楽しむ為にあるのだと、頭じゃなく魂の底から感じるこの頃。

 

残りはガラスの花瓶に入れて

そして、余った部分は、他の花瓶に入れた。

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ガラスで飾ると涼しげ

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小さい小瓶に入れても、可愛い

この小さく生けたものは食卓に置いて、楽しませてもらった。

下に垂れ咲く白い花は、蕾が花開いたもの。

家族とも、この話題で花が咲いた。

 

クレマチスを飾った感想

控えめに俯き咲く姿がとても可憐で、なかなか良い。

調べたら、クレマチスってたくさんの種類があるようだ。

(購入したものの品種の名前がうまく調べられなかった。)

また、茶花っぽくて実に満足しているが、「日本や中国では大輪のクレマチスを鉢に仕立てて鑑賞」「ヨーロッパ原産種・交配種は花が小さいことから、ヨーロッパでは主に修景に用いられる」そう。

多くの国でいろいろな形で愛されていて、自分がその一員になったようで嬉しかった。

 

花の持ち

ちなみに、花もちはあまり良くなかった。

咲いていた花は、3、4日で花びらと雄蕊?もパラパラと落ちた。

ガーベラやカーネーションの場合は、花の外側から色がくすんで枯れていくのが見て分かるのに対し、このクレマチスの場合は、サッと散り落ちる。

実に潔い。

 

葉は今の所、生き生きとしているように見えるので、お部屋のグリーンとして楽しんでいる今。

 

 

知っている花がちょっとずつ増えていくのが嬉しい。

花屋の前を通るのも楽しくなっている。

6月は何を飾ろうか。