しあわせ街道 膝栗毛

心豊かに穏やかに。不器用なアラサーによる、ひとり楽しい生き方の模索録。

「幸せ自慢」が鬱陶しく感じるのは何故か?

 

「この間、こんなことをして楽しかった」

「幸せに感じているんだ」

こういう報告を聞いて、どう思うだろうか?

 

心から素直に「いいね!」と思うのか?

それとも、「なんかモヤモヤする」のか?

 

話し手、聞き手、それぞれの心の状態で変わってくるものだ。

 

幸せの定義

幸せ、不幸の定義は人によって違う。

この度は、幸せな人は「満たされていると感じている人」、不幸な人は「満たされていないと感じている人」ということにする。

 

幸せな人の「幸せ報告」

話し手が幸せの「幸せ報告」。

☆ 聞き手も幸せだったら、ハッピーな会話、

☆ 聞き手が不幸だったら、面白くない話か、憧れる話か…(聞き手次第)。

 

じゃあ、話し手が不幸な場合の「幸せ報告」は?

話し手が不幸なのに、幸せ報告ってある??

 

不幸な人の「幸せ自慢」

幸せを外に求めている

一見矛盾していそうだが、こういう人、身の回りにいないだろうか?

見栄を張ったり、自分を大きく見せたり、それっぽい雰囲気を出しつつも、なんか飢えている人が…

 

話し手が不幸な場合の「幸せ報告(=幸せ自慢)」は、自分目線の幸せを味わっている人ではなくて、他人目線での「幸せっぽいもの」を味わっている人の話だと思う。

 

そもそも「満たされる」「幸せ」と思うには、外側にではなく、自分の内側に感じる他ない。

いわゆる「素敵!」なことも、他人目線の「良さそうと思われそう」じゃなくて、自分目線の「いいな」であることが大切だ。

 

素敵だと思われたい

例えば、「自然の中で読書したい」と思った場合…

「ここで本読んだらかっこ良さそう、人生楽しんでそうな人っぽい」

と、景色やシチュエーションを自分を引き立てるために使うのも楽しみ方の一つだけど…

これは自己満足しているようで、"人から「素敵」「いいね」と言われたい"という気持ちもあるので、きっとどこか虚しさを覚えることだろう。

 

一方、「ここのこの景色を存分に味わいつつ、読書に集中できたら気持ちよさそう」

と、あくまで自分は自然の一部、それを味わうんだ、という姿勢だと、自分がどう思ったかが幸せに左右するだけなので、他者と幸せは繋がっておらず、関係がない。

 

同じような幸せ報告をしても…

話し手が「幸せな人」か「不幸な人」かで会話に求めるものが違う

「不幸な人」の場合、他人目線での楽しみ方になるので、"誰かに報告したい欲"ありきの行動になってしまいがち。

先程の読書の例でいうと、50%その場での読書を楽しんで、残りの50%部分を誰かに報告したり「いいね」と言われることで満たされる。

それが聞き手からすると、自慢やアピールに聞こえてしまうのだ。

というか、欠けているからこその自慢やアピールなのだ。

 

一方、自分目線での楽しみ方ができる「幸せな人」の場合、その場を100%楽しめて、それを心から楽しかったこととして報告しているだけなので、話し手がハッピー。

 

仮に、聞き手が不幸な人だったとして、批判を喰らってしまっても、その読書自体は楽しかったし満たされた行動だったので、「話す相手を間違えたな」程度でサラッとながせてしまう。

 

「幸せ自慢」が鬱陶しく感じてしまうのは

チクチクを感じるから

話し手の「よく見られたい」「素敵って言われたい」という部分によって、話し手の行動が作り物のように思えてしまう。

もちろん、作り物が悪い訳ではない。

ただ、作り物をあたかも本物かのようにして、話し手にとって満たされない部分を補おうと、聞き手を刺激してしまうのが、少々厄介なのかもしれない。

 

そんな幸せ自慢は、チクチクした形のイメージ。

純粋に相手に話を聞いてほしいわけではなくて、陰には「期待」「執着」「闘争心」が見え隠れする。

いい反応を求められるのが、しんどい。

自分より優位であろうとする相手が、しんどい。

 

優しい幸せ報告は、聞き手も幸せになる

もし本当に、話し手が地球に生まれ無事命あって、したいことができている幸せを味わえているのであれば、その人の幸せ報告によって溢れ出るエネルギーは、間違いなく他の人を幸せにするものだと思っている。

 

悪口は悪口を呼ぶけれど、逆に、幸せもまた幸せを呼ぶ。

聞き手にとっても、「そんないいことがあったんだな」と幸せな世界が1つ増えたことになる訳だ、そんな幸せ報告は、優しく温かい光のよう。

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終わりに

この度は、話し手サイドの要因の話をした。

冒頭でも述べた通り、聞き手の価値観・心の状態によってもハッピーな幸せ報告が、鬱陶しいものへと変わるもの。

 

また、この度は私自身、記事を書きながら、自分の過去を振り返って反省した。

昔は昔で、例えば「休日は美術館へ行きます」などにしても、当時十分に楽しんで幸せだと思いながら行動していたはずなのだけど。

今思えば、いや、今感じる心から望むしたいことと比較した時に初めて、「あああれは他人から良く見られたい、という思考も混じっていたんだな」と気づくことができた。

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お恥ずかしながら、この時はまだ、美術館の楽しみ方が曖昧だった。

「美術に関心がある私」「美術館へ行く私」感が強かったかもしれない。

 

あれから2年。

自分の絵とも心で向き合いつつ、関心がある展示の美術館へと足を運んだりするうちに、美術館へ行くことが、自分にとっての楽しみ方の選択肢としてレギュラー化したような感じ。

なるほどなぁ。

 

歳を重ねる度、自分の変化が味わえるので、10代、20代の昔より、断然今の方が楽しくて幸せだ。

と、こうして幸せアピールするのも、記事の内容に矛盾しているような気もするのだけど。