ひとり写真部の活動記録 ー春先編ー
真冬に比べて暖かくはなってきたものの。
まだ風が冷たい、そんな春先。
桜の咲き始める季節なので、いい写真が撮れないかとカメラを持ち出す。
桜?桃?梅?
蕾がぷくぷくと目立つのが可愛くて、思わず足を止めた。
枝のグレーがかった茶色と、花の濃いピンクの組み合わせが、なんともオシャレ。
結果、春らしい花々した写真は、このくらいしか撮れなかった。
心惹かれた枝を見つけ、植物愛が増す
帰り道。
ちょっと冷んやりとし始めた日暮れに、ものすごく心惹かれる枝を見つける。
上へと伸びゆく木枝と芽。
芽の出るバランスの、絶妙な均等感がたまらない。
均等なのに不自然さを感じない、それどころか生のエネルギーを感じるのがなんとも魅力的。
木や枝って、なぜこんなに美しいんでしょう。
単体で見ても、集合体で見ても…
余白といい、バランスといい、質感といい、存在が洗練されていると思う。
割と最近まで、自然に対してなんとも思っていなかった。
それが歳を重ねるごとに、不思議な奇跡的存在だと思うし、心から魅力的に思えて愛おしい。
植物と自分とを重ねることで癒されるから、というのもその理由の1つかもしれない。
植物と自分とを重ねる
職場での人間関係、やりづらさ
私事だけれど、このところ、職場の人間関係で面白くないことがあり。
まぁ人同士のこと。
やはり他人だから、期待してはガッカリして、分かり合えたと思ったら距離を感じて。
関係も距離も対応も、波があるのは当然ではある。
それは承知だし、ちゃんと頭では、
「職場は仕事する場だ、私は私であろう。割り切ろう。」
と思っているのだけど…
それでもそういう空気に傷付いている自分も認知している。
怯えだったり、やりづらさだったり、モヤモヤだったり。
そんな中、人の嫌な気に当てられて、オドオド怯えながら過ごすこともできるけど…
自分の人生を作るまず"今日"を、こんな思いをして過ごすのは残念な事だな、とも思う。
だから、自分のしたいように(相手の気分や行動に左右されずに)堂々とするのも選択肢の一つ。
誰だって、自分自身がかけがえのない自分なのだ、雑に扱っていい自分じゃない。
負の波を耐え忍ぶ姿を、植物に学ぶ
冬の間、寒さに耐え忍び…
春の気配で、一斉に自分の生に従い伸びゆく木々や植物たち。
ただ自分の生を全うする姿に、改めて美しさを覚えた。
風が吹こうとも、雨が降ろうとも、自分が自分を生きる植物のように、
自分の品を忘れず背筋を伸ばして、ただ聳え立つ木・枝であろう。
私は私でおろう。
私はそうありたい。
と、思わず植物と自分とを重ね、己を奮い立たせた、春先の夕暮れ。
「冬と春」「昼と夜」の境。
移り変わる瞬間の嬉しさと寂しさとが混じった時に、複雑な余韻に浸った瞬間だった。
まぁ、そんな複雑な考え方をせずとも、夕暮れ時って切ない気持ちになるものよね。
そんな一日の終わりに思ったこと
自然界の植物を見て、「なんか、いいなぁ。」と思った。
それをを掘り下げた先に、こんな思いを抱いていた自分に気付いた。
「そっかー」と思いに耽りながら家路に着く。
負の波が来ようとも、それと幸・不幸は関係無いのかもしれない。
結局は自分がどこに幸せを感じるかなのだろう。
春を感じれたし…
そんな写真が撮りたい自分を満たしたし…
自分の考えていることを認められたし…
幸せを感じられたし、自分を大切にできたと感じた1日だった。