社会人生活に慣れてから感じること
仕事や人間関係や恋愛など何かにストレスを感じている時は、それにいっぱいいっぱいになって、幸せを感じる余裕が無い。
かといって、何事もなく、何事も求めずに心穏やかに過ごす日々が送れていると、それはそれで幸せだと思うのだが、このままではいかん!という気持ちになる。
今の私は後者で、人間関係も何事も無い日々、コロナの影響で勤務時間の短縮と、そして夏にかけて陽が長く、晴れの日が続くことも相乗してか、根拠のない謎の幸福感に包まれている。
受け身的な幸せ
ただこれらの要因は、「自分が受け身」である幸福で、条件や状況に左右される幸せなのだと気づいた。
人間関係でトラブったり、仕事でミスをしたり、時短勤務が終わったり、雨が続けば今ある幸福感は薄れるだろう。
よって、その幸福感が薄れていくことが怖い。
今が一番いい時期で、また下がっていくのではないか、と。
受け身でもなんでも、目の前にある幸せに"幸せだ"と感じることができる点は、いいことなのでは?と思う自分と、
自分から働きかけることによって得る満足感は、何事にも変えられない幸福感を得るはずだよ。と思う自分。
とはいえ思考停止でガムシャラに動くだけなのも、幸せになろうという願望に振り回されて、一番上に書いたような結果(いっぱいいっぱいになって幸せを感じる余裕がなくなる)になってしまうこと間違いなし。難しい。
まぁどちらが正解とかじゃなく、おそらくバランスの問題だろう。
じゃあどうするか。
受け身の幸せの崩壊を怖がったり、日々変化がないことで「まずい、このままではボケる!」と抱く危機感を、意識的に変化をつけることができたなら。
ということで、ここ数日試してみたことがある。
試してみたこと その1
仕事の帰り道に、日々なにかを1つでも見つけること。
なにかとは? 「あ!」と思うもの。(小●製薬か)
毎日同じ通勤路なので、今更何かが見つかるとは思わなかったけれど、植物に着目すると意外と見つかる。
6月は紫陽花が楽しめますね。
グラデーションが日に日に変わっていくのを見て癒される。
あとは、ツタ?系植物のツル状の成長速度に目を見張ったり。
そして、みたことのない花や、雑草を写真に撮ったり。
それを絵に描くのも新鮮でした。
「こんなもの見つけたったで〜!」という達成感と、自分だけの密かな楽しみ感が、ちょっとしたいい刺激になっています。
(こうして公開することによって密かじゃなくなったけれども。)
試してみたこと その2
なるべく絵・イラストを描くこと。つまり何かを生み出すこと。
ここ最近、高校生以来ぶりに連日のように絵・イラストを描いています。
もとも、絵を描かなくなった理由は、描きたい絵が無くなったことでした。
今は、ブログを更新するにはこういうイラストが必要だな、と思って描いています。
でもこうしたら描くことが全然苦じゃなくて。
「自分に必要とされている絵描きの自分」が満たされるからでしょうか。
知らなかった自分の一面を発見しました。
そして、普段と変わらない1日だった…と思っても、イラストを1枚でも描けば、まぁ今日はあのイラストを描いたしな!と思えるか否かは大きい。
まとめ
状況で左右される"受け身的幸せ"が壊れる不安や恐怖から脱却するために、
・今までと違うことを意識的に見つける
・日々大したことなくても挑戦してみる
ことで、同じような毎日を変えることができそうです。
終わりに
私の好きな映画・本「日日是好日」(森下典子著)の中のセリフに好きな言葉があります。
「こうしてまた初窯がやってきて、毎年毎年、同じことの繰り返しなんですけど、でも、私、最近思うんですよ。こうして毎年、同じことができることが幸せなんだって。」
深い。
意味はわかるし、一度だけ自分の経験としてこの言葉がストンと落ちたこともあったけれど、これをその時に味わったみたいにずっと同じ感覚で自分に落とせるかと言われたら難しい。
だって私は現に、この言葉に対して「わかったことあるわ〜」と言いつつも、今書いてきたように「日々同じことの繰り返しが飽きるししんどい」と言っているから。
同じような毎日を変えたいと思っているけれど、もしかしたら、「同じような毎日を変えたいと踠いていた時が一番幸せだったわ」と思う日が来るかもしれません。
やえきぬ道中膝栗毛
ということで、壮大な前振りになったが、これはこれから試してみたいこと。
やえちゃん(龍)ときぬちゃん(蛇)が幸せなことをしていく絵を、毎度の記事のおまけとして入れたいなぁと思っているところです。
ではまた。