自分が「いいな」「素敵だな」と思ったことに、蓋をしないでね。
自分が感じたことを、無視しないで、ちゃんと自分がわかってあげてね。
自分は自分でしか生きられないから
自分を精一杯大切にして、自分を楽しもう。
咲いた花、じゃあ今日は、お茶と一緒に楽しもうかな。
自分の思いを大切に
素敵だと感じるその心の尊さ
全てにおいて…
興味がなかったら、なんでもない景色。
「ほら、この花綺麗でしょ」って押し付けれようと、花の美しさ素晴らしさをどんな言葉で説明されても、そう感じないものは感じないもの。
例え、お金を積まれて「この花を素敵だと感じろ」と言われても、素敵だと思うフリはできても、心から自分が思うことって、無理なこと。
でも、だからこそ。
何かに対して、いいなと思った・綺麗だなと思った、その自分自身は尊いものだから、その思いとそう思った自分を大切にしてほしいと思うのだ。
決して、他人の目を気にしたり、気のせいだとかどうでもいいだなんて自分で蓋をしたりしないでほしい。
心の奥底の思いも尊重する
そしてそれは、同時に、嫌な気持ちなどにも言えること。
嫌な思いをした。
それを表面上うまく取り繕って、やり過ごしたと思っていても、心の奥底では、自分にすら気付いてもらえていない自分の思いが、消えずにずっと残る。
そして、嫌な気持ちというのは、ネガティブなものだからダメ、と否定しがち。
「こういう思いを抱く自分は、なんて酷い自分なんだ」
「こんなことばかり思っちゃダメだよね」と、自分自身を責める。
でも、これもまた、自分が感じていることだから。
素敵だと思う気持ちと同様に、嫌な気持ちもまた、この自分が感じていること。
「大丈夫だよ、なんとかなったよ」とその場を凌いでも、心の奥底では、実際大丈夫じゃない、嫌だったと思っている。
何かを思う自分こそ自分の本体なのに、それを自分が認知しない。
人に自分のことをわかってほしいと望みながら、自分自身が自分をわかろうとしない。
そして人は人。所詮他人。
最終的に、自分でしか自分をわかってあげることができないのに、その自らが自分を見捨てているなんて、残念でならない。
自分の気持ちを認知する
つまりは、どういうことでも、自分の気持ちに蓋をしない。
別に、どう思おうとどう感じようと、それが自分なのだから、否定することはない。
自分の気持ちをちゃんと認知する。
「ああ、自分って今、こう思っているんだな」と気付くこと。
”自分を大切にする”って、つまり根本はここなのかもしれない。
これからの行動は自分で選べる
「相手の行動に対して怒っていたと思ったけど、本当は、きっと寂しかったんだな。」
「本当は私、相手に期待していたんだ、相手に私を見て欲しかったんだね。」
「相手の中に自分がいないこと、ずっと薄々気付きながらも、でもどうにかなるかもって頑張っていたんだな。それは苦しかったね。」
自分が思っていることをちゃんとわかってあげたら、これからの行動は自分で選べる。
「相手の行動、ありえなくない!?腹が立つ!!」
と怒り続けることもできる。
「あの時は楽しかったのに…」「どこからこうなっちゃったんだろう」
と過去に生きることもできる。
「この時もこの時で楽しかったけど、本当は、寂しさを抱えていたんだよね。それに気付けてよかったね。」
「でもどういう時に自分の思いに蓋をする傾向があるんだろう?あえて客観的に意識して過ごしてみよう」
「じゃあこれからは、自分の気持ちを無視することが少なくなるといいね」
と、これからの生き方に生かすこともできる。
これから自分を大切にするか否かも選べる
幸せの価値観は人によって違う。
どの選択をしてもいい。
状況やタイミングによっては、自分を認知したり、傷を癒すのに時間がかかったり、悲しみや怒り状態にあった方が楽な場合もあるだろう。
「本当は、前に進んだ方がいいのに…」
という思いすら、その"のに"に、
「でも、今はそういう気持ちになれない」
という心の声があるわけだから、否定しないで、今の自分の声に耳を傾けること。
そして。
そういう時こそ。
自分がいいな、素敵だな、と思うものに救われるかもしれない。
そしてそれは、時間薬と共に薬となって、徐々に自分を癒すかもしれない。
自分が自分らしく。
自分は、この不完全な自分で生きても大丈夫なんだ、と思えるように。
総括
自分のことは、自分しかわからない。
そしてその自分にも、ノイズたっぷりの心の中ゆえに、何かよくわからないけれどそこにある、という思いが存在している。
それでも、この一生。
色々思い感じる"この自分"でしか、生きられないから。
自分が、今この瞬間「どう感じるか」に焦点を当てて、そう感じる自分自身を尊重してあげる。
自分の思いをちゃんと認知すれば、後悔なく自分がしたい行動を選択していける。
その選択がいいとか悪いとかは関係ない。
だってそう望む自分がいるのだから。
ただまぁモラル的な善悪は存在するので、実行するかどうかは別だけれど、それでもそう思う自分は否定せず、認知した上で行動を選べばいい。
「例え認知したところで、これからの選択が変わらないなら、認知すること自体に意味ないのでは?」
と思うかもしれない。
いやいや、そんなことはない。
なぜなら、そうすることで後になって内なる自分が声を上げることがなくなる。
内なる自分は、大抵気付くのが遅れるもの。
「あの時こう思っていたのに!!気付いてもらえなかった!!」と後出しで声を上げるものだから、なかなか成仏できない。
裁判でも事件でも、判決決まった後に証拠やら証言やら沢山出てきたら、勿体ないし悔やんでも悔やみきれないことだろう。
どんな時でも楽しめる。
自分がそれを望んだ時から。