しあわせ街道 膝栗毛

心豊かに穏やかに。不器用なアラサーによる、ひとり楽しい生き方の模索録。

「ひとりの幸せ」を掘り下げてみた

私なり定義している、ひとりの幸せについて、述べてみました。

ひとりの幸せの「ひとり」とは

「自分」「この私」のこと

独身や孤独のひとりではなく、自他の「自」であり、「自分」「己」「わたし」を指します。

 

例えば…

家と会社を往復する毎日、「趣味がない」寂しさ虚しさを感じる

「何か楽しいことないかな」
「自分には何があるんだろう?」
という物足りなさ・満たされなさ・虚無感を覚えることがある

「自分は今の生活を送ることを本当に望んでいるだろうか?」
「このままでいいのかな?」
と問うことがある

これは、独身でも既婚者でも、どういう状況であっても自分の中の問題として起こりうることだと思います。

そんな中で、自分の人生を歩んでいる個としての自分を、ひとりと考えます

 

私が思う幸せとは

「心安らいだ」状態のこと

私が今現在考える幸せとは、自分で自分を苦しめず、目の前にある物事や自分に満足して、心穏やかに生きることです。

「今を楽しむ」とか、「今を面白がる」ということも含んでいます。

 

※ 個人的な価値観ですが、「楽しむこと」と、「楽しいこと」は違うし、

 「今を楽しむ」と「今だけ楽しければいい」も別物と思っています。

 

過去に考えていた幸せと、それによる苦しさ

以下、お恥ずかしながら、自分の経験談です。

もっと器を大きくすれば、立派に見えるかもしれない!
恋人ができたなら、結婚したなら、家族ができたなら、転職したなら、きっと人生が変わる!
コップの空いた部分にたくさんの水が入るに違いない!

 

「すごくなりたい!すごい自分を見てほしい!」

「自分を幸せに変えてくれる鍵は環境・状況に違いない!」

と思っていました。

 

要するに、「"他人"や"何か"が降って湧いてきたりすることによって、自分の人生が変わる」と思っていたんですね。

誰かと出会ったり、何か新しいことをすることで、自分が変わる、と。

 

いろいろなことにチャレンジして、いろいろなことに精通したら、付き合う人間関係も変わるし、ますます素敵な人間になれそう!

「他の人とは一味違うというアイデンティティの私」になりたかった。
満たされたかったし、幅の広い人になりたかった。

 

けれど、どんな大きく立派な器を用意しても、それを持つのは等身大の自分。

 

知識を得ても、忘れる自分が情けないし…

興味趣味の範囲を広げても、自分より趣味知見の広い人はわんさかいるし…

広げれば広げるほど、ただ苦しいだけの自分に気付きました。

 

「見栄えのする器あっての自分」

「器こそがステータス」

これだと、逆に自信が無くなる。

器だけ大きくても、水が少なかったら、虚しいだけ。

「すごくなりたい!」と思っていたけれど、私はどこまですごくなれば満足するのだろう?

 

自分が自分に満足していなければ、終わりない欲と戦い続けることになる。

それってしんどくない?

 

このような考えに至った時、

上には上がいる。

私は自分の体でしか生きられない

他人基準で考えるのはやめよう。

と考えを改めるようになりました。

 

自分に合った器と水量でおる。

言葉にすれば、ごく当然、当たり前の考え方ではありますが…

感覚的に、「自分を磨くこと・成長すること=器を大きくすること」だと思っていたので、もがき苦しくなって初めて、当たり前のことに気が付きました。

遠回りでしたが、自分にとって意味のあるものでした。

自分ひとりにとっての幸せを探す理由

「安心」と「安全」は違うものだからこそ

あと、いい歳するまでずっと根底にあった考え方なのですが…

安全な道を選んだら、安心できると思っていました。

いわゆる安全な道、だけど自分が安心できるとも限らない。

 

どういうことで、不安に思うんだろう?

逆に、どうあったら安心できるのかな?

ああ私って、こういう道が好きなのね。

安心できるかどうかは、自分の心次第なのだと…

 

いわゆる世間一般の"「幸せ」ってやつ"が、自分にとって幸せかどうかはわからないということ。

だから、自分にとっての幸せが何なのかを問っていきたいと思いました。

 

まず、ひとりで幸せでいるために

自分は自分で満たす

どうやったら自分は満足するのだろうか?

その行動選択の連続が、結果として幸せに繋がるのではないか、と考えています。

 

だから今、私は自分で自分を満たすことを模索しています